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ヨーロッパの隠れ家エストニア

エストニアの風景

エストニアのとは

バルト三国の一つで、ラトビア、ロシアと国境を接し、バルト海とフィンランド湾に面する北欧の小国です。
かつてソ連の一都市だった時代は遠く去り、現在は多くの観光客が行き交う北欧に開かれた“バルトの窓”となっています。首都のタリンは、中世の空気を今に伝える港町。
旧市街は城壁に取り囲まれ、絵になる美しさをもっています。そのタリンをはじめ各地で、夏のシーズンを中心にさまざまなイベントが催されてます。
エストニアが独立を回復して十数年が過ぎた今、ヨーロッパの表情を取り戻し、中世ハンザ都市のにぎわいを再びよみがえらせています。

エストニアの概要

国名 エストニア
正式国名 エストニア共和国 Eesti Vabariik
国旗 上から青、黒、白の三色旗。
国歌 Mu Isamaa, Mu Onn ja Room「我が祖国、誇りと喜び」
面積 4万5227km2(北海道の約60%)
人口 約129万人(2010年推計)
首都 タリン Tallinn
元首 トーマス・ヘンドリク・イルヴェス大統領
政体 共和制。15の行政区(Maakond)と6つの都市に区分されている。EU加盟。
民族構成 エストニア人68.7%、ロシア人25.6%、ほかにウクライナ人、ベラルーシ人など。
宗教 キリスト教。エストニア人のほとんどがプロテスタント。ほかにロシア正教など。
祝日・祭日 1月1日 新年
2月24日 独立記念日(1918年、ロシア帝国からの独立)
※ グッドフライデー
※ イースター
5月1日 メーデー
※ 聖霊降臨祭
6月23日 戦勝記念日(1919年、Vonnuで)
6月24日 夏至、聖ヨハネの日
8月20日 独立回復の日
12月25日 クリスマス
12月26日 ボクシングデー

※は移動祝祭日で年によって日にちは異なる。

エストニアの歴史

古代

1万1千年前頃からエストニアに人が定住し始めたとされています。そして紀元前3千年過ぎにエストニアの東部からフィノ・ウゴル族が移住して、先住民と共に生活をし始めました。森の木を切る時は森の神に許しを請い、熊を狩る前には熊の魂に祈りを捧げながら、船乗り、養蜂家、狩人、漁師や農民などが自然と一緒l羊平和に暮らしていました。

ドイツ・デンマーク時代

12世紀のバルト地域ではドイツのチュートン騎士団が権力を振るっていました。13世紀の初め(1227年)にはドイツとデンマークからの十字軍によってエストニアのキリスト教化が進められました。この十字軍の征服後の14世紀にはエストニア各地に教会や要塞が建ち、街が建設されて封建的社会が確立されました。この頃のバルト地域はハンザ同盟の影響下にあって、タリンを含めいくつもの町がハンザ同盟に加盟していました。その当時レヴァルと呼ばれていたタリンは、1248年にハンザ都市としての特権を得て、数世紀に渡って北欧の重要な商業都市として栄えました。16世紀前半までのドイツの影響で、ルター派的な文化が今でもエストニアに根強く残っています。

スウェーデン時代

1558年からデンマーク、スウェーデン、ロシア、ポーランド各国の間で領土をめぐる闘争が繰り広げられエストニアは戦場と化しました。そしてこのリヴォニア戦争でスウェーデンが勝利を得て、18世紀の初めまで支配しました。このスウェーデン支配下でエストニア語教育に力が注がれ、1632年にはエストニアで最初の大学がタルトウに設立されました。エストニアの人々はこの時代を「古き良きスウェーデン時代」と呼んでいます。

ロシア帝国時代

18世紀初頭、大北方戦争が終結した後、エストニアはロシアの占領下に入りました。エストニアはピョートル大帝が長い間渇望していたヨーロッパの窓口になったわけですが、それでもドイツ貴族は領地支配を、タリンはハンザ都市としての特権を維持しました。 一方、17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパ中に啓蒙運動の風が吹き荒れていました。それはエストニアも例外ではありませんでした。19世紀には民族意識が高まり、知識階級が台頭してくると1862年にクロイツヴァルドによる国民叙事詩「カレヴィポエグ」が出版され、1869年には歌の祭典が開かれました。この時代に創設された国立劇場は何度か改築されましたが、今でも同じ場所にあって「エストニア」という愛称で親しまれています。

エストニアの独立

1918年2月24日、エストニアは共和回として独立を宣言しました。これは初めロシア革命の混乱に乗じた一方的なものでしたので、1918年から1920年までの間、真の独立のために戦わなければなりませんでした。これがエストニア自由戦争です。この戦争はエストニアの勝利に終わり、1920年2月、ソヴィエト政府との間でタルトウ平和条約が結ばれ、ソヴィエトは無期限でエストニアの独立と主権を承認しました。こうしてエストニアは独立を国際的にも勝ち取ったのです。タリンも徐々にハンザ都市時代を思い出させるほどに賑わいを取り戻しました。ところが、1939年の独ソ不可侵条約の秘密議定書によつて、2国間で新たな国境が引かれ、エストニアはソヴィエトソヴィエトに組み込まれました。約20年間続いた最初の共和国時代は終わりを告げたのです。そして日本は1919年3月6日エストニア共和国を事実上承認したのです。

旧ソヴィエト連邦時代

1940年に始まったソヴィエト支配の間、エストニアは一時的(1941年〜1944年)にナチス・ドイツの一部になりました。しかし1944年に第2次世界大戦が終焉を迎えると、エストニアは3年続いたナチス・ドイツの占領から再度ソヴィエトに併合されることになりました。多くのエストニア人や地主であったバルト・ドイツ人などは国外に逃亡し、ある人は逮捕され、またある人はシベリアに抑留されました。このようにしてエストニアは人口の大部分を失い、残った人々はロシアの異なった文化、習慣を受け入れなければならなくなりました

エストニアの独立回復

1988年、タリンの歌の原で行われた集会は、バルト3回の独立運動が「歌の革命」と呼ばれるきっかけとなりました。この後、1990年の議会選挙で独立派が勝利し、1991年の国民投票によって大多数の独立支持が確認されました。 これと平行してソ連との独立回復交渉が行われ、1991年8月20日、ついにエストニアは独立回復を宣言しました。エストニアでは1939年の独ソ不可侵条約締結と同時に結ばれたソ連へのバルト3国併合に関する協定を否定し、現在でもエストニアの独立記念日は1918年2月24日としていますムそして日本は1991年10月10日、エストニアとの国交を正常化しました。

※当サイトのエストニア共和国の紹介ページ「エストニアについて」は、駐日エストニア大使館発行提供の小冊子「エストニア」の内容記事の抜粋または引用により構成されています。

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